岩手医科大学
歯学部同窓会

第79回(令和7年6月22日)

法歯学者のお仕事

熊谷章子先生
熊谷 章子先生

講師:熊谷章子先生

岩手医科大学法科学講座法歯学・災害口腔医学分野
特任教授

 日本における法歯学の歴史を紐解くと、岩手医科大学初代学長である三田定則先生にたどり着く。三田先生が東京大学法医学講座在籍当時、法医学における歯科の役割について講演されたという記録が残っている。それから100年以上の時が立ち、東日本大震災を経て、2017年に岩手医科大学の新たな統合基礎講座として法歯学・災害口腔医学分野が開設された。近年施行された死因究明や身元調査に関する法律には、それらへの歯科医師の関りが明記され、2025年度時点で日本の歯科大学・歯学部29校中、本学を含めた16校に設置された法歯学関連の講座・研究室等では、現代社会に即した教育方法を追求している。つまり我々法歯学に携わる者は、まずは歯学生たちに法医・歯科学および災害医学を教授するという役割を担い、後に卒業する学生たちが法歯学関連問題数問を含む歯科医師国家試験を受け、合格後歯科医師として社会に身を置き、臨床医として成長しながら、大規模災害発生時の責務を認識できるようにしなければいけない。

 筆者は法歯学者として医療紛争や虐待の歯科的評価・分析に関わることもあるが、身元不詳扱いの死者や徘徊者を個人識別するため、これまでに報告されている精度の高い法医学的手法を利用した性別判定や年齢推定(図1–4)、そして口腔内所見からその人の個性を見極めることによる最終的な身元特定を担う機会が最も多い(図5)。前述した死因・身元調査法には、適切な死体の死因や身元調査を推進するための人材育成、実施体制の充実、そして連携協力についても示されており、よって全国各地で開催されるようになった多数災害犠牲者発生時のための警察や海上保安部と歯科医師会との合同訓練や研修会にも協力している(図6)。しかし他の学問とは異なり、「実際」の経験なく緊急時(災害事)に備えなくてはならない領域である法歯学は、その「実際」に触れることで予期せぬ社会問題に直面し落胆することも多々あることは否めない。

年齢推定

図1  AlQahtaniらによる小児・青年期の年齢推定のためのLondon Atlas.

年齢推定

図2 小児・青年期の年齢推定のためのDemirjian法(右)およびCameriere法(左)

年齢推定

図3 成人の年齢推定のためのCameriereらによる歯根と歯全体の面積比を評価する方法(右)とGustafsonはじめ多くの法歯学者によって報告された歯の形態観察による方法

年齢推定

図4 著者らが報告したCone-Beam CT画像による成人の年齢推定法

身元特定を担う機会

図5 身元不詳者の身元が特定されるまで

合同訓練や研修会

図6 警察・海保と歯科医師会との災害犠牲者対応研修の様子

 歯の所見によって身元不詳者の個人識別がなされた例として、口元の印象から死体の身元特定に至ったことが日本書記や古事記ですでに示されており、また世界中を第二次世界大戦に巻き込んだAdolf Hitlerの焼損死体(自殺後の焼却による)の個人識別も、歯のエックス線画像が利用されたことが報告されている。歯は、その他の科学的根拠となるDNAや指紋よりも極めて人間味のある身元特定の証拠となり、特に口元の写真やエックス線画像といった視覚的素材は、その死体を取り扱う警察等の理解を得やすく、その人の帰りを待つ遺族も納得して現実を受け入れやすくなるに違いない。昨今では法歯学領域でも人工知能(Artificial Intelligence: AI)が活用されるようになり、その精度を高めるため、個人識別のための資料としてのエックス線画像が多く利用されている。

 しかし、日本における身元不詳者の身元特定は、死体現象が進んだご遺体の顔を見せられた遺族による判断や、所持品の確認のみという、未だ非科学的な方法が採用され、特に緊急時(災害時)はその傾向が強くなるようだ。その理由には、思うように進まない日本の医療体制の改変、つまりデジタル化の遅れが要因の一つと言え、これにより身元不詳者の候補者となる行方不明者情報収集が困難となることに加え、行政と学究的領域の連携不足も挙げられる。これらは国際刑事警察機構(The International Criminal Police Organization: INTERPOL)が示す災害犠牲者個人識別(Disaster Victim Identification: DVI)の標準的な方針とかけ離れており、つまり諸外国と比較しても日本は旧態依然であることが明らかである(図7)。

災害犠牲者個人識別
図7 災害犠牲者個人識別の国際標準(出典:INTERPOLウェブサイト

 日本の災害時の対応は、各自治体の能力に委ねられる。つまり市民の命は自治体の技量や備えに依存していると言ってもいいのかもしれない。しかし、その市民の多くは「緊急時は自治体が自分たちを守ってくれる」と思っている。基本的に災害時は生き延びた者への対応が優先され、残念ながら犠牲となった者やその遺族の尊厳は守られにくくなってしまう。それは犠牲者身元調査方法だけにとどまらず、遺体の処理や遺族対応といった側面からも、改善点を見出さなくてはいけない問題が山積している。しかし死に触れることをタブー視する日本の風習や死生観から(図8)、そのための積極的な取り組みや備えのために金銭を使用すること(予算立てすること)は困難である。日本国民に対してもこのような状況となると、訪日外国人観光客や在留外国人数が急増する今、緊急時彼らに適切な対応がなされるか甚だ心配である。

死に触れることをタブー視する日本の風習や死生観
図8 日本の「死」の考え方とその影響

 突然の災害に見舞われたとしても、災害対応する者ができるだけ適切な遺体対応とその遺族への配慮を認識できるよう、我々は2020年から理想的なモデル構築のための取り組みを始めた。その成果物となる災害対応者による犠牲者とその遺族対応のためのバーチャル訓練教材制作のため、これまでに2度の助成金獲得が叶い、以下に示すウェブサイトから視聴することが出来るようになっている(図9, 10)。災害対応者はこの動画を視聴することで、実動訓練のための場所や時間、人員を確保せずに、犠牲者とその遺族対応について学ぶことができる。いずれも約30分に編集されているため、災害対応者でなくとも、興味を持たれた方には是非ご視聴いただきたい。

図9 災害対応者のためのバーチャル訓練教材1のサムネイル
図10 災害対応者のためのバーチャル訓練教材2-外国人遺族対応-のサムネイル

 緊急時でも自身は生還することを前提に備えている者がほとんどだと思う。しかしこの文章を最後までお読みいただいた皆様には、突然起こる非常時に「もしかしたら命を落としてしまうかも」という最悪の事態を考えることが、自身の命を守るための備えにもなり、そして常に近しい人たちへの配慮も忘れないことにつながることを知っていただきたい。このような、いわゆる「縁起でもないこと」を考える必要性を啓発し続けるのも法歯学者の仕事なのだろう。

  1. 山本勝一.法医歯科学 第5版.1988年,医歯薬出版株式会社(東京).
  2. Reidar F Songnnaes. Dental evidence in the postmortem identification of Adolf Hitler, Eva Braun, and Martin Bormann. Legal Medicine Annual 1976, 173–235.

麻酔薬で“眠らせる”ことはできるのか? 睡眠−鎮静−全身麻酔の神経薬理学的考察

中村 正帆先生
中村 正帆先生

講師:中村 正帆先生

岩手医科大学統合基礎講座
薬理学講座医病態制御学分野 教授

1. 睡眠時間

 日本人の平均睡眠時間(2021年)は男性466分、女性457分とOECD加盟国の中で最も短く、米国人と比べて約90分少なかった。医療従事者の平均睡眠時間はさらに短く、2009年報告では看護師の平均睡眠時間が約6時間だった。大阪歯科大学の報告では、歯科医師の睡眠時間は平均5時間であり、睡眠が診療に影響を与えることが示唆された [1]。

2. 睡眠の生理的意義

 疫学的研究の結果から、適切な睡眠時間が慢性疾患の発症や悪化の予防につながることが明らかになっている。米国の大規模なコホート研究では、7時間睡眠群で最も生存率が高かった [2]。一方で、睡眠時間と歯周病の関係はまだ一定の結論が得られていない [3]。工場に勤務する日本人を対象にした研究では7-8時間睡眠が最適とされたが、modified Miller’s Community Periodontal Index (CPI) scoreとの関連は明確でなかった [4]。睡眠は記憶機能においても重要な役割を果たしている。例えば、ノンレム睡眠中の神経活動やレム睡眠中のシナプス活動・再構成が長期記憶の固定に必須であると報告されている [5]。さらに、ノンレム睡眠中にグリアリンパ系が活性化し、脳内の老廃物を排泄することも明らかになっている。

3. 睡眠覚醒サイクルの制御

 ヒトの睡眠では、まず入眠時にノンレム睡眠が出現し、約90分後にレム睡眠へと移行する。この睡眠サイクルを一晩の間に4~5回繰り返し覚醒する。睡眠覚醒サイクルの制御において、視床下部の神経細胞群が重要な役割を果たしている [6]。特に前部視床下部のGABA神経細胞群 [7]と後部視床下部のオレキシン神経細胞群 [8]が、睡眠と覚醒の切り替えを担うことが知られている。睡眠時は前部視床下部のGABA神経細胞群活性化し、覚醒を促進するオレキシン神経細胞群やその下流のモノアミン作動性神経細胞群を抑制する。一方で覚醒時は、後部視床下部のオレキシン神経細胞群が活性化し、その刺激をモノアミン作動性神経細胞群が受けることで、前部視床下部のGABA神経細胞群が抑制される。このようなGABA神経細胞群とオレキシン神経細胞群・モノアミン作動性神経細胞群間の相互抑制は、典型的な“フリップフロップ”スイッチを形成し、睡眠覚醒の切り替えを制御している [6]。

4. 鎮静・全身麻酔と睡眠

 鎮静・全身麻酔の臨床的所見と神経生理学的特徴から、麻酔薬の意識への作用と睡眠には共通の神経メカニズムがあると考えられてきた [9]。たとえば、ヒトの中枢神経系イメージング研究では、ノンレム睡眠と麻酔薬誘発性意識消失によって抑制される脳部位の類似性が報告されている [10]。しかしながら、神経科学的研究手法の発展により、睡眠覚醒を司る神経回路の活性が全身麻酔の意識消失と相関しない場合があることも、齧歯類などでは明らかになっている。近年クライオ電子顕微鏡などの技術革新により、生体内タンパク質分子と吸入麻酔薬分子の結合を微細に解析できるようになった [11]。今後さらに、吸入麻酔薬の標的分子との結合が詳らかになれば、全身麻酔薬の意識消失のメカニズム解明につながることが期待される。

以上

参考文献

[1] 木下円我, 柿本和俊, 小正裕, 歯科医師の睡眠状態と日中の活動, 歯科医学, 2013, 76巻, 1号, p. 28-37.

[2] Kripke DF, Garfinkel L, Wingard DL, Klauber MR, Marler MR. Mortality associated with sleep duration and insomnia. Arch Gen Psychiatry. 2002 Feb;59(2):131-6.

[3] Muniz FWMG, Pola NM, Silva CFE, Silva FGD, Casarin M. Are periodontal diseases associated with sleep duration or sleep quality? A systematic review. Arch Oral Biol. 2021 Sep;129:105184.

[4] Shizukuishi S, Hayashi N, Tamagawa H, Hanioka T, Maruyama S, Takeshita T, Morimoto K. Lifestyle and periodontal health status of Japanese factory workers. Ann Periodontol. 1998 Jul;3(1):303-11.

[5] Brodt S, Inostroza M, Niethard N, Born J. Sleep-A brain-state serving systems memory consolidation. Neuron. 2023 Apr 5;111(7):1050-1075.

[6] Saper CB, Scammell TE, Lu J. Hypothalamic regulation of sleep and circadian rhythms. Nature. 2005 Oct 27;437(7063):1257-63.

[7] Sherin JE, Shiromani PJ, McCarley RW, Saper CB. Activation of ventrolateral preoptic neurons during sleep. Science. 1996 Jan 12;271(5246):216-9.

[8] Sakurai T, Amemiya A, Ishii M, Matsuzaki I, Chemelli RM, Tanaka H, Williams SC, Richardson JA, Kozlowski GP, Wilson S, Arch JR, Buckingham RE, Haynes AC, Carr SA, Annan RS, McNulty DE, Liu WS, Terrett JA, Elshourbagy NA, Bergsma DJ, Yanagisawa M. Orexins and orexin receptors: a family of hypothalamic neuropeptides and G protein-coupled receptors that regulate feeding behavior. Cell. 1998 Feb 20;92(4):573-85.

[9] Brown EN, Lydic R, Schiff ND. General anesthesia, sleep, and coma. N Engl J Med. 2010 Dec 30;363(27):2638-50.

[10] Franks NP. General anaesthesia: from molecular targets to neuronal pathways of sleep and arousal. Nat Rev Neurosci. 2008 May;9(5):370-86. [11] Rödström KEJ, Eymsh B, Proks P, Hayre MS, Cordeiro S, Mendez-Otalvaro E, Madry C, Rowland A, Kopec W, Newstead S, Baukrowitz T, Schewe M, Tucker SJ. Cryo-EM structure of the human THIK-1 K2P K+ channel reveals a lower Y gate regulated by lipids and anesthetics. Nat Struct Mol Biol. 2025 Feb 26.